尾瀬開山①(開山よりも昔)

沼田街道

まだ尾瀬と檜枝岐村が観光地として開かれる頃よりずっと昔、尾瀬の開山よりもはるか昔の平安時代末期頃には尾瀬を挟み戸倉から檜枝岐に通じる道が存在していた。

尾瀬を挟み片品と戸倉を結ぶこの古道は平安時代の頃から存在していたとされ、慶長(5年)1600年に上州沼田城城主、真田信幸により上州沼田城下と会津気多宮を結ぶ街道として整備された。このとき尾瀬沼の湖畔が会津と上州との交易の場となっていた。(1170年にはすでに会津と片品の交易の記録がある。)

戊辰戦争の際には幕府軍の精鋭部隊300~400人が檜枝岐に駐留し、戸倉に駐留した新政府軍と尾瀬を挟みこの道を通じてにらみ合っていた。

この古道が沼田街道(会津街道)と名付けられたのはもう少し時代が進んだ明治14年の事、それ自体に意味は無いと思われます。この沼田街道がの一部が私達が福島県から尾瀬に足を運ぶ時に利用している沼山峠からの道です。

古道←こちらにも沼田街道について書いております。

尾瀬と釣師達

尾瀬は関東と東北を隔てる分水嶺、帝釈山脈の北に広がる盆地状の湿原で、その有り様はまるで人目を憚るかのように標高2000m級の山々に囲まれ、西に尾瀬平(尾瀬ヶ原)、東に尾瀬沼と燧ケ岳によって二つの地域に分かれている。

半年を雪に覆われる尾瀬は雪解け水を豊富に蓄える。その流れ出しである三条ノ滝は日本最大級の水量を誇り、阿賀野川水系最大の支流、只見川となる。

そしてこの尾瀬には昔から当たり前の自然があり、人里離れたの水源の地で職業として釣りを行う職漁者達がいました。明治の頃、春が訪れればまだ雪が残る燧ケ岳の北側を抜け、夏から秋にかけて尾瀬沼から燧ケ岳の南側を抜け、丈掘(見晴)に釣り小屋をかけ檜枝岐から5~6人、片品から2名ほど、猫川のほうにも片品から数名の職漁者達が訪れていた。