尾瀬の名の由来

会津風土記

尾瀬の名が初めて書物に記されたのは、寛文六年(1666年)、会津藩初代藩主、保科正之によって編纂された「会津風土記」である。その時の記述によると「小瀬峠 陸奥上野二州之界」「小瀬沼 在会津群南郷縦八里横三里」と記されている。

高倉宮以仁王伝説

尾瀬という地名の語源は伝説に由来するもの、景観に由来するもの、それぞれいくつかのいわれがある。会津一帯に伝わる伝説で、高倉宮以仁王伝説がある。

治承四年(1180年)宇治川の戦いに敗れた高倉宮以仁王が十三名の供奉と小国城主、右馬頭頼之の元へ落ち伸びる道中、中仙道より沼田をぬけ八月八日尾瀬沼に一泊した。そのとき供奉の一人、尾瀬中納言藤原頼実(檜枝岐に住んでいた尾瀬大納言頼国の弟)が病死した。その亡骸を大江湿原に収め塚には尾瀬院殿大相居士と宮の手で記され、尾瀬の由来となった。

余談だが、翌九日檜枝岐に向かう途中燧ケ岳の東麓で参河少将光明が病死した。燧ケ岳東麓、赤法華の小高い所に埋葬し一本の桂の木を植えられた。その塚には再び宮の手で「参高霊位大相居士」と記された。これも実川の由来となった。

南会津には尾瀬以外にも高倉宮以仁王の伝説とその痕跡とされる遺物や史跡があり、尾瀬を離れて足跡をたどって見るのも浪漫があっていいものです。

会津と上州

この他にもいくつか由来とされる伝説がありますが、昔から会津では小瀬(おぜ)上州では尾瀬(をぜ)と呼びならわされてきたそうだ。